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わすら雑記
趣味の工作、DIY等の雑記
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たらもと

Author:たらもと
「わすら」とは関東地方の一部で使われる方言で、標準語でいうところの「いじくる」の意味なのですが、このブログでは日曜大工をベースに趣味の範囲でいじくれそうな物を色々とわすらしてゆきます。



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明治新道「林道 竹内羽仏線」(後編)


人は毎日多くの事を忘れて生きる。かつてどれほどそれを熱望したのか、そしてどれほど敬愛したのか、多くの情熱が注がれ、それは恒久的な輝きを放ち続けると信じて疑わなかった…にもかかわらず、人は過去よりも今この瞬間を生きることに奔走するあまり、それらをいつしか忘れてしまうのだ…と130余年の時を越えこの道を今も見守りつづける石碑が静かに語ってくれた。

といったわけで、現地で記録したメモ帳とデジカメの拡大写真から碑文の内容を調べる試みなのですが、石碑の下部は土に埋もれ、また一部が苔むしているのでどうやっても判読不能な箇所があるのが残念ですが、これをスコップで掘り出したりスクレーパーでガリゴリと表面を削ったりするのは犯罪行為になるのでこれが非接触調査の限界であり素人による歴史探索ゴッコの限界でもあります(汗)
また、旧字体と思われるどうやっても読めない文字は「多分こんなカタチ…」とムリヤリ作字(ピンク色で表記)した極めていい加減なものですし、そもそも自分のような無知蒙昧による解釈なので高確率で間違っているハズですが(汗)そこはどうかご容赦ください。

kksdtrc.gif

陸軍大将三位勲一等功二級
男爵 鮫島重雄 閣下 題字

栃木県芳賀郡東北部の道…
すこぶる難あり、小貝村の竹内(現地名)…
…率先して新道を開削…
続谷(至地名)から竹内に連なる…
…X五年三月に起工…二十…
役所が一等里道に……
街道中…塩田から竹内間の…
…新道の開削は明治十八年四月…
起工から凡そ八ヶ月あまり、しかも役所が頑張って…
…の為、県道に仮定し今日の交通の便が倍…
君の働きは君が逝ってもその多くが村人の…
(以降不明:中国語の慣用句?)

烏山(現・那須烏山市)川俣英夫 選
陸前(現・宮城県)及川梅堂 書
 大正六年一月三日 建立


…というわけで、おおよそのストーリーがなんとなく分かったのですが、まず、明治15年(1882)3月に竹内~続谷区間の工事を行い一等里道に認定。その後明治18年(1885)4月に塩田~竹内区間の開削工事を行い8月に県道に認定されたようです。

…ん?あ!
じゃぁここは県道じゃなくて一等里道じゃん!?

cy_smjmsd_z.gif

といったワケで…前編で“明治県道”とか何度も書いていたけど、県道は現在の64号の一部重複区間の事で、この林道は“一等里道”というのが正しい区分であるといまさら発覚!(汗)

…ゴメンナサイ。。

…さて、当時これだけ村を挙げての一大事だった新道開削工事ですから市貝町史にもそれについての記録が載っていて然るべきですが、残念ながらなぜかその話題にはスルー。。しかしあきらめきれずに町史の資料編を調べていたときに当時の財務資料として掲載されていた帳簿がなぜか“一等里道修繕費”というミラクル発生(笑)とりあえず長いので一部をかいつまんで載せます。

明治廿六年
一等里道修繕費並びに人夫賃金割合帳
第十二月三十一日 峰崎組


一 金八厘 青木啓蔵 なわ四ば
一 同壱銭二厘 塩沢文次郎 なわ三ば 同三ば
一 同四円五拾銭 荷車壱代


十一月十八日 古宿下町長平より
一 同壱円也 酒代 えび壱升五合
十一月十八日
一 金三拾五銭 同酒代
十一月十九日 稲見太一郎より
一 同五拾二銭 松板八枚
一 同四銭 杉割弐本
一 同二銭五厘 壱寸弐分釘五十目
〆金五拾八銭五厘


十二月十日 下町長平
  手間代金壱円九十三銭一厘
一 三十三人○見目安平
  同代金壱円七十七銭
一 三十三人○青木惣五郎
  同代金一円七拾七銭


…といった具合に、当時の明治政府は「寄付や奉仕で賄うべし」と地方事業には補助金をなるべく出さない方針だったようで、帳簿にはこまごまとした消耗品費や、1円(現在の価値にするとおよそ1万円程度)の人件費など低予算で工事が進められ、明細書にある“酒代”などという名目から労働後に酒を振舞って「それじゃ皆さんお疲れ様でした~」という無償奉仕によって多くが支えられていたようです。。昔の人ってすごい!今だったらそんな義侠心なぞ皆無でゼッテーみんなブーブー文句言ってるよ(汗)

Kawamata_hideo_wiki.jpg

さて、それから肝心のこの碑文の作成者についてですが、市貝町からも程近い那須烏山市出身の偉人・川俣英夫(1856年~1924年)氏によるもののようで、氏は帝国大学で外国語や医学を学び、自身は粗衣をまといつつ貧しい者に対しても分け隔てなく医療を施し、また学問の重要性を訴え学校を設立(現在の烏山高等学校の前身)するなど、県東北部においては数え切れないほどの偉業の人物であったようです。
ちなみに石碑の建立年の大正6年と道路起工年の明治18年とでは実に32年もの隔たりがあり、なぜそんなに経ってから石碑を建立したのかがイマイチ謎ですが、少なくともそのあたりまではこの一等里道がまだ機能していた事の裏付けになりそうです。あと、陸前の及川梅堂氏についてはググってもほとんど情報が出てこないのでよくわかりませんが宮城県の漢文作家?もしくは書家?でしょうか。

SamejimaShigeo_wiki.jpg

そして、この碑文の最大の謎というべきビッグネーム“男爵 鮫島重雄 陸軍大将(1849年~1928年)”ですが、読んで字のごとく爵位を持ち帝国陸軍最高位である大将の称号を持つ偉人の名が何故この細道の開通碑に?と大変驚いたのですが、石碑にある“篆額”とは現代で言うところの“題字”の意味で、恐らくは偉人同士の何らかの交流で烏山の川俣氏と当時宇都宮の陸軍第14師団指令本部の最高責任者だった鮫島大将のコラボ石碑が実現したものと勝手に推測。自分はてっきり「軍道か?」と色めきたったのですがそんな事は無かったようで(汗)

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それから、軍道といえば、鮫島閣下が宇都宮在任中に基地内の軍道(現・桜通り)に「桜の木を植えよう!」と提案したエピソードが記録に残っており、これが後の“宇都宮の桜の名所”となり、そして桜がなくなった今でもその名称が受け継がれているようです。ちなみに鮫島閣下は一兵卒から最高位の大将まで上り詰めたレジェンドですが、意外…と言っては失礼ですが険しい風貌に似合わず風流な一面も持ち合わせていた方なのかもしれませんね。

cy_smjmsd_c.jpg

ついでに、県立美術館の近くの歩道橋脇には「桜並木ここにあり」という記念碑が建っており、桜通りの名の由来などが記されています。ちなみにWikiによると「5000本のソメイヨシノが植えられ」とありますが、この石碑では「両脇に五百有余本」とあり、他の資料でも約1000本となっているので、Wiki先生が盛りすぎかと(笑)

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それから、当時鮫島閣下が過ごした屋敷は現在宇都宮グランドホテルが建っているようで、閣下が当時明治天皇より賜った山桜が残っているそうです。

cy_smjmsd_e.jpg

最後に、鮫島閣下の墓は奥様とともに市内の報恩寺にあり、退役後に鹿児島へは帰らず昭和3年に亡くなるまで宇都宮で余生を過ごされたようです。
といったわけで、市貝町の林道探索から思わぬ歴史探訪に発展しなぜか宇都宮市街地を走り回るハメとなりましたが、その間も普段通りなれない細路地に好奇心が刺激されたり自分の中では大変充実した機会となりました。
次もまたこういった“掘り出し物件”に巡り会えるよう、日々地図を睨み続けている次第です。

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